2017年11月7日火曜日

大企業のノルマが、「不正の温床」になる本質的な理由

ノルマの意味を誤解している人が多い

 ここのところ数百人規模の従業員が関わる「ダイナミックな不正」がたて続けにバレている。

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 日産自動車の無資格者検査、神戸製鋼の十年以上前から行われたデータ改ざん、そして商工中金など創業80年を越す「名門」の現場で、かなりアバウトなことが行われていた。少し前には、ゼネコン業界に激震が走った杭打ちデータ不正問題なんかもあった。いくら取り繕っても、「日本型組織」が制度疲労を起こしているのは疑いようがない。

 なぜこうなってしまったのか。「利益偏重の経営者が悪い!」とか「組織文化とか体質的な問題がある」とかいろいろなご意見が飛んでくるだろうが、個人的には、ここまで同時多発的に組織崩壊が起きている最大の理由は、「ノルマ」にあると思っている。

 個々の経営者、個々の組織の問題ももちろんある。だが、根っこの部分で、これら「不正企業」に共通してみられるのは、「ノルマ」への強いこだわりだ。

 例えば、日産の工場でエンジンに関わる作業をしている方は、マスコミの取材に「ノルマが決まっていて、品質よりも生産第一みたいな雰囲気があった」(日テレNEWS24 10月20日)と答えているし、十数年以上前から改ざんが平常運転だった神戸製鋼でも、「納期に間に合わせるため、担当者がついデータを書き換え、それが続いてしまったのではないか」(毎日新聞 10月9日)と梅原尚人副社長は釈明している。

 また、ほぼ全店で、全職員の1割超にあたる444人が不正に手を染めていた。商工中金の安達健祐社長も、10月25日の会見で以下のようにおっしゃっている。

 「6月の段階では、『予算を業績評価に組み込んだことが現場を誤解させた』と発言した。今の認識は過大なプレッシャーをかけてしまって、それはノルマとして現場に認識されたことは仕方がないということで、私はその時点と認識を変えた。それについて6月段階で職員1人1人にメールで陳謝した」(産経新聞 10月25日)

「ノルマ」と「不正」は双子の兄弟

 そう聞くと、「いやいや、数値目標なんてあって当たり前だ。もっと厳しいノルマを課せられても不正に走っていない企業も多くあるぞ」という反論があるだろうが、ぶっちゃけて言ってしまうと、それは「たまたま」である。

 たまたま今はノルマを達成できているとか、たまたま不正に走らねばならぬほど追い詰められていないというだけで、ちょっと条件が変わればいつ日産や神戸製鋼になってもおかしくはないのだ。

 なぜかというと、それがノルマの本質だからだ。多くの人が勘違いをしているが、ノルマと不正は双子の兄弟、あるいは合わせ鏡のような存在なのだ。

 そのあたりをご理解していただくには、まずはノルマという言葉に対する誤解を解く必要がある。

 多くの人がノルマのことを「数値目標」のようなものだと思っているが、そうではなく正確には「個人や工場に割り当てられた労働基準量」を意味する。つまり、個々の能力や環境を考慮して設定された目標などではなく、組織が達成する全体目標から逆算して、その構成員らに問答無用で割り当てられる「労役」なのだ。

 例えるのなら、「数値目標」は、病気になった友人の手術代をどうにか捻出しようとクラスのなかの有志が呼びかけて募る「カンパ」のようなもので、これに対して「ノルマ」は、ボスから金集めを命じられた不良少年が気の弱い子を脅して、何枚も売りつける「パー券」のようなものだ。

 なぜこのような違いがあるのかというと、ノルマという言葉のルーツに関係している。実はこれは英語でもフランス語でドイツ語でもない。ロシア語である。

 そう聞くと勘のいい方はお気付きだろうが、この概念は、旧ソ連の「計画経済」という考え方とともに世界に普及した。「5カ年計画」なんて言葉があったように、「計画経済」とは読んで字のごとし、長期的な計画をたてて、その計画どおりに経済成長を果たしていくという考え方である。要するに、ノルマ主義とは計画経済主義なのだ。

「調整」という名のもとで、「不正」が当たり前に

 そりゃ素晴らしいじゃないかと思うかもしれない。当時のソ連人もみなそう思った。が、この素晴らしい「計画経済」が不正の温床になってしまう。

 当たり前の話だが、なんでもかんでも計画どおりに進むわけがない。しかし、計画経済のなかでは個々がノルマを達成するのが大前提なので、そういうミもフタもないことを言ってしまうと、社会や組織が崩壊してしまう。では、どうするか。不眠不休で働いてノルマを達成しようとしても、人間がやることなのでどこかで必ず限界が訪れる。そうなると、追い詰められた人たちの考えることはひとつしかない。ノルマを達成するために、ありとあらゆるところでちょちょいと「不正」を行うのが平常運転になってしまうのだ。

 ずいぶんと旧ソ連を悪く言うじゃないかと不愉快になる方もおられるかもしれないが、それは筆者が適当に想像で言っているわけではなく、現地のジャーナリストがそうおっしゃっているのだ。

 かつては『プラウダ』とともに旧ソ連の機関紙として1000万部超を誇った『イズベスチヤ』紙のミハイル・ベイゲル経済評論員は以下のように述べている。

 「旧国営企業の経営者は、伝統的に統計をごまかすのに慣れている。旧ソ連の計画経済時代には、ノルマを超過したかのように生産量を過大報告することによって政府から奨励金を受けていたが、今は逆で生産を過小報告することによって税を逃れている」(日経産業新聞 1995年2月24日)

 つまり、ノルマ主義によって、なにをおいても計画どおりに物事を進めるべしと強迫観念のように刷り込まれたことによって、「調整」という名のもとで、改ざんやデータ不正が当たり前になってしまったのである。

 いかがだろうか、まさしく今の日本型組織と重ならないだろうか。これらは日本が「計画経済」と「ノルマ」の呪縛からいまだ逃れられていないからだと筆者は思っている。

日本社会で生きづらい最大の理由

 日本に「ノルマ」という言葉が広まったのは戦後、シベリアでソ連兵から厳しいノルマを与えられ、強制労働をさせられていた方たちが帰国してからだという説があるが、実はこの概念自体は戦前から持ち込まれている。

 その象徴が、1939年に制定された「国家総動員法」である。

 この法律は日本人独自の斬新な発想などではなく、実はドイツ経由で入ってきたソ連の計画経済をまんまパクったものだ。

 生産性をあげるために企業に国民を縛り付けておく終身雇用や、国家のために国民が与えられた労働量をこなす「ノルマ」という、平成の世にまで脈々と受け継がれてきた「日本文化」はこの時期につくられたものなのだ。

 商工中金は、金融危機や震災が終わっても「危機対応業務」を継続した。政府系金融機関なのだから「危機」が過ぎれば、民業圧迫にならないように「危機対応業務」という計画の軌道修正、つまり「縮小」や「撤退」を検討しなくてはいけないはずが、そのまま破たんした計画を突き進んだ。

 これは「大東亜共栄圏」という破たんした計画を突き進んだ日本軍から続く、「ノルマ」と「計画経済」の呪縛にとらわれた日本型組織の「伝統的な失敗パターン」といえる。

 いまほとんどの日本人はこの国を「自由主義経済」だと思い込んでいる。市場原理や競争原理が働き、やる気と能力があれば好きなことができる社会だと信じられている。一方で、ネットには愛国心溢れる言説が多く、共産主義的なイデオロギーは「反日」のそしりを受けている。だが、その若者たちも一方で、「ウチの会社はノルマが厳しい」と旧ソ連の労働者とまったく同じようなスタイルで働いている。

 こういう二重人格のような社会の「歪み」こそが、日本社会が生きづらい最大の理由の気がしてならない。

 なぜ日本はこんなに豊かなのに自殺者が後を絶たないのか。なぜ人もうらやむような大企業でパワハラや過重労働がまん延しているのか。

 シベリアの強制労働では多くの尊い命が奪われた。その一方で、過酷なノルマのなかでも、どうにか生き延びた人もいらっしゃる。その点がいまの日本企業と丸かぶりだ。ノルマに追いつめられ、「もうだめだ」と脱落したり、不正に走る人もいれば、過酷な環境にフィットして生存競争に勝ち抜き、「ノルマなんかあって当然だ」とうそぶく人もいる。

 続発する日本企業の内部崩壊は、戦前から続くソ連型経済の崩壊をあらわしているのではないのか。

(窪田順生)

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