2018年1月24日水曜日

ヤフーの参謀役、表舞台へ 「データ会社になる」

 ヤフーが6年ぶりのトップ交代を決めた。かじ取りを託されたのは43歳の川辺健太郎副社長。6年前に親会社、ソフトバンクグループの孫正義会長兼社長(60)から突然社長就任を言い渡された宮坂学氏(50)が頼りにしてきた右腕だ。当時はスマホに出遅れて危機モードのまっただ中。スマホシフトにメドを付けたヤフーは新体制のもと新たな挑戦に出る。

ヤフーの社長に就任する川辺健太郎副社長(右)と宮坂学社長(24日午後、東京都港区)

ヤフーの社長に就任する川辺健太郎副社長(右)と宮坂学社長(24日午後、東京都港区)

■新興勢力から突き上げ

 「ヤフーはスマホの会社に加えてデータの会社になる」。川辺氏は24日の記者会見でこう語った。日本のインターネット黎明(れいめい)期である1996年に設立されたヤフーは「莫大なデータを蓄積している」のが強み。川辺氏は「データの力を解き放っていきたい」と力を込めた。ビッグデータ分析を通じて広告やネット通販の精度を高めていくという。

 ヤフーの業績は堅調だが、置かれた状況は厳しい。主力の「ヤフーオークション」はメルカリなど新興勢力の突き上げを受ける。世界に目を向ければ米グーグルや米フェイスブック、中国アリババ集団などIT(情報技術)の巨人たちの背中は遠のく一方だ。

 実はヤフーも海外展開のチャンスは虎視眈々(たんたん)とうかがっていた。本家の米ヤフーが経営難に陥った2017年、アジアのヤフー事業買収に向けて動いたが交渉は決裂した。「内弁慶企業」として勝負することになったヤフーは、まずはデータの蓄積を生かして地盤を固めることになる。

■「おまえがやるべきだ」

 ただ、6年前は正真正銘の危機だった。

 「俺、何か怒られることでもやったかな」。その日、宮坂氏は恐る恐る東京・汐留のソフトバンク本社に向かっていた。12年1月のことだ。孫氏が直々に話したいことがあると言う。坂本龍馬の等身大写真をじっと見入っていた孫氏が突然切り出したのが社長交代だった。「おまえがヤフーの社長をやるべきだと思うぞ」

 当時の宮坂氏は執行役員になってまだ3年足らず。だが、予感はあった。孫氏に呼び出される3カ月前のことだ。

 「ヤフーはもったいない!」。孫氏が開く社内私塾である男性が前代未聞のスピーチを始めた。この日はヤフーの経営改革がテーマだったが、これでもかと言わんばかりに当時のヤフーの経営体制を批判し続けた。男性の名は村上臣氏(40)。ヤフー幹部だったが当時の経営陣に嫌気がさして退職していた。

 村上氏がこき下ろしたのが、パソコン時代の成功体験にとらわれてスマホの可能性に気づかない当時の経営陣だった。これを聞いた孫氏が経営陣刷新を決断した。

 社長に指名された宮坂氏が真っ先に連絡をよこしたのが川辺氏だった。2人は社員の目に付かないように渋谷のカラオケボックスで密会。当時は子会社社長だった川辺氏に副社長兼最高執行責任者(COO)として自らを支えるよう要請した。「あいつはズケズケとしゃべるタイプだし、カラッとケンカできる相手だから」というのが川辺氏を右腕に選んだ理由だという。

■転機はウィンドウズ95

 その川辺氏が「密会」の直後に電話を入れたのが村上氏だった。「なあ臣、ヤフーに戻ってこいよ」。川辺氏は宮坂氏との二人三脚で本気でスマホシフトをやり抜くと説いた。長年の付き合いの川辺氏から懇願された村上氏はヤフーへの復帰を決意した。

 川辺氏と村上氏は青山学院大学の先輩と後輩に当たる。当時、学園祭でサンバ隊を組んでいた川辺氏がパーカッション担当として勧誘したのが村上氏だった。

 2人の仲はサンバにとどまらなかった。川辺氏に人生が変わる転機が訪れたのは95年11月23日だった。米マイクロソフトの「ウィンドウズ95」が発売されたその日、川辺氏はウィンドウズを求めて人がごった返す真夜中の秋葉原にいた。「これからすごい時代が始まる。俺もインターネットで何かやりたい」。インターネットの未来を強烈に予感したという川辺氏は、任意団体として学生ベンチャーの電脳隊を発足。声をかけたのがハッカーの顔も併せ持つ村上氏だった。

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